認められたいと思っているうちは認められないという罠

認められたい

今回も私の考える心の健康の話です。

 

人って、やっぱり人から認められたいもんですよね?

認められたいと思うことは普通のことです。(人間の欲求の1つで承認欲求と言います)

 

アメリカの心理学者マズローの「欲求5段階説」という考え方がありまして、人間の欲求は以下のように分類されています。

 

  • 自己実現欲求(自分の持つ能力や可能性を最大限発揮したい)
  • 承認欲求(認められたい・他社からの評価が気になる)
  • 社会的欲求(社会的に役割がほしい・他者に受け入れられている)
  • 安全欲求(雨風しのぎたい・健康でありたいなど)
  • 生理的欲求(いわゆる食欲・性欲、睡眠欲)

 

下から上に行くに従って「高次な欲求」として位置づけられています。

多くの場合は家族や会社に所属しているので、3番目の社会的欲求まではある程度は満たされていると思います。

(という前提で話をしていきますね)

 

今回テーマにしている「認められたいと思っているうちは認められないという罠」は社会的欲求の上の承認欲求です。

誰しもある欲求なのですが、個人的にはちょっとやっかいな欲求と感じているのでテーマにしてみました。

それではいってみましょう。

周りは「あなたがどれだけすごい人か」なんて興味はない

あなたのすごさには興味はない

いきなりきつい表現を使ってしまいましたが、耳が痛い人もいるかもしれません。

(あなたのことを好きな人は興味があるかもしれませんが・・・)

でも耳の痛い人は、自分がそのようなコミュニケーションを取っていることを自覚できたわけで、ある程度自分から離れることができているとも思います。

 

無自覚に「自分のこと」ばかりを伝えてしまう場合も多いんです。

 

  • 自分が知っていることをただただ話す(聞いてる人置いてけぼり)
  • 「そんなことも知らないの?」「当たり前じゃん」とか言っちゃう
  • できなかった理由と延々と説明する(言い訳長すぎ)

 

人間の欲求ですので仕方のない事なんですが・・・

聞けば聞くほど言い訳臭かったり、自慢話に聞こえたりして、認められるどころか嫌がられる・・・

認められたいという欲求が前に出すぎて、結果として認められないという状況になります。

 

スポットライトが自分に当たっているんです。

コミュニケーションの基本は、こちらが話をしていたとしてもスポットライトを相手に当てることです。

 

自分がすごいということを言わないとすごさが伝わらないということは、多分すごくないんですよ。

 

圧倒的な実力をつける

圧倒的な実力をつける

承認欲求を満たすために、一番手っ取り早いのは「圧倒的な実力をつける」ことです。

周りの人が「すごい」と思うような結果を残す、と言っても良いです。

 

ここでも考えていきたいのは「認めてもらいたいから頑張る」というのは、もったいないんですね。

また自分にスポットライトが当たっています。

 

  • 誰かを満足させるために
  • 誰かを感動させるために
  • 誰かを幸せにするために

 

圧倒的な実力をつけて下さい。周りが認める結果を出してください。

そうすると、求めてもいないのになぜか認められるようになります。(と本当に思います)

 

自分から離れられるかどうかが大切です。

認められたい、と思っているうちは私の表現だと「自分にべったり」なんです。

 

これも人間全般に言えることですが、他人にはすごく良いアドバイスができるのに、自分のことになると口だけになったりするんですね(反省)

他人事と自分事が違いすぎるんです。

 

自分から完全に離れることは凡人の私には不可能ですが、少し距離をおくという意識は持っておけば役に立つ思います。

 

「正しいこと」を追求できるかどうか

正しいことを追求できるかどうか

これは私の考えですが「正しいこと」って万人に共通することってほとんどないと思うんです。

でも、正しさを求めていく生き方(姿勢)は大切でしょう。

 

あなたの「正しい」はどこまでのことを考えているかを再考してみましょう!

 

  • あなたの中だけの正しさなのか?
  • 家族の中の正しさ?
  • 会社の事業部の中? 会社全体まで広がる?
  • 一般論? きれいごと?

 

「誰に」「どの範囲の正しさ」のことを言っているのかは、話し手・書き手は意識して発信することが大切だと考えています。

後はその正しさを相手がどう受け取るかだけです。それは神のみぞ知ります。

 

自分が正しいことと思ってやっていることでも他人には正しくないことだってありますし、会社にとっての正しさを家庭内に持ち込んだらもめるかもしれません。

本当に正しいのはすべてに共通する正しさですが、なかなかありませんね。

だからこそそれを考えて追及していくという生き方が良いと考えています。

このような人にはオーラがありますし、もちろん認められていますね。

 

「分かっている」と思ったときが危険

分かったときが危険

これね、本当に気をつけたほうが良いです。

仕事でも趣味でも考え方でも、何かに取り組んでいると「あ~、もう分かった!」と思うことってありますよね。

それはそれで良いことなんですが、分かったと思ったときこそ危険です。

 

  • 分かったと思ったことに対して上から目線になる(周りは気づきますよ)
  • これ以上追求しなくなる(中途半端な知識のまま)

 

どこかに「まだ分かっていないこともあるんだろうなぁ」という可能性を持っておいて下さい。

 

「そんなことを言っていたら、全部分からないじゃん!」

はい、そうなんです。それが現実です。

 

ここが難しいところで、ある程度「分かったからこう決める!」としないと行動できない人も多いです。

結局のところいくら考えていても、行動しないと価値を作ることは出来ない(つまり認められない)じゃないですか。

行動しないと、考えていたことが正しかったのかどうかも分からないじゃないですか。

 

ですのでこの考え方(分かったと思ったときが危険)は、人によって向き不向きはあります。

考えるだけで行動しなくなってしまうのはもったいない。

 

自分が行動できるレベルで考えてみて下さい。

 

一つ注意してほしいのは、100%何かを信じるということは国際問題にもなっているテロにも通じる危険な考え方だと思います。

普通の人なら、そんなに極端には行けません。無意識かもしれませんが、人それぞれですがどこかでバランスを取っているはずです。

それを意識的にやってみませんか?という提案です。

 

分からないことがたくさんあると、慣れないうちはモヤモヤすると思います。

でも安心してください。慣れますよ。

何かを学べば学ぶほど分からないことは増えますし。

 

認められないと自信が持てない?

認められないと自信が持てない?

そういう面はあると思います。

でも相手にというか周りに認められないと自信が持てない、というのは周りに依存していますよね?

それはそれで困ります。

基本的に自分以外のことは制御できません。周りに「なんとか認めてもらいたい」ということを考えるよりも

 

  • 正しさを持つ
  • その正しさを貫いてみる
  • その活動自体に自信を持つ(だって正しいことをしてるんですから)
  • その正しさが周りと一致するところがあれば勝手に認められる
  • 自分の考える正しさを常に更新していく生き方をする

 

世の中から全く認められない「正しさ」というのは考えにくいです。

もしかそうなってしまったら自分の考える正しさを再検討することも大切です。

柔軟に軽やかにでも一本筋を持って生きていきたいですね。

 

まとめ

自分のために、が強すぎると・・・当然自分のために行動してしまうんですね。

でも「100%自分のためではない相手のためだ」なんていうことは少なくとも私は持てないです。一般人ですから。

 

何のために話をするのか、書くのか、描くのか、仕事をするのかという目的は

誰かに何かを伝えたい、がベースにあると思うんですよね。

 

私の場合はこのWEBサイトを使って、人生に役に立つ情報を伝えたい、になってるんですね。

こういうことが好きなので、活動自体が自分のためでもあります。

 

今回のポイントは

 

  • 認められたい欲求はみんなにあるんだよ
  • でもそれを積極的に思っているうちは認められない
  • 圧倒的な実力をつけよう
  • それを人のために使おう
  • 「分かった!」は危険だよ

 

です。

いろんなことを書いてしまいましたが、何かのきっかけになればうれしいです。